八月でした。わたしは右の耳で波の音を聞いていました。左の耳はあの人の腿におしあてていました。彼は器用に片手でページをめくりながら、茶色く褪せた文庫本を読んでいました。ずいぶん前に亡くなったおじいさんが、元気なころに一から自分でつくった、壁のない小屋のような休憩所でした。
わたしたちは番人のように毎日そこで過ごしました。気が向けばざぶざぶと水に入り、疲れたら小屋でこてんと眠り、からだが乾けば数十メートル先のうちに帰りました。
冷蔵庫はふたつあって、緑のほうにアイスがストックされています。彼はバニラとか、みぞれとか、そういうものしか口にしません。わたしは舌の色が変わるようなのを好んで選んでいました。広いあがりかまちに腰掛けてアイスを食べていると、近所のおばさんがひび割れて商品にならないたまごを数ダース、分けに来てくれます。このおばさんはいまでは夫に先立たれ、関東に住む息子夫婦のもとへ行ってしまいました。
わたしはおばさんにお礼を言い、アイスを渡し、シフォンケーキを焼いたら持っていく約束をします。チョコレートを混ぜたシフォンケーキがわたしのお気に入りなのですが、ふつうのよりもたまごをたくさん使うため、こういうときでないと思い切ってつくれないのです。さっそくわたしはキッチンに立ち、もらいたてのたまごを卵黄と卵白に分け、卵白のほうを冷凍庫にしまいます。少し凍らせるとメレンゲがいい具合になるのです。そのころのキッチンはまだIHではなかったので、わたしは湯せんでチョコレートを溶かしました。彼はシフォンケーキではなくて、残った卵黄でつくるクッキーのほうを待っています。珈琲をいれるのがじょうずでした。
死にたい、とこぼすと、その裏にあるもっとずっとたくさんの白とも黒ともつかない自分でも把握できないもろもろをそれだけで心得たように、彼はわたしの髪をなでるのでした。
わたしは幼さという免罪符がある自分が彼のぶんまで言ってあげようと、そんな気になっていたのかもしれません。よく泣きました。喚きました。わたしは「いい子」でした。そうでないことをどうしようもなく自分でわかっていました。
「だいじょうぶや」。そのトーン、右手にしていた指輪がいつもつめたかったこと、香水の清潔なにおい、よくない顔色。
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