夢を見た。誰も居ない廊下だった。職員室のドアを開け、いちばん手前にあるデスクの上から赤い缶を手に取る。星と月のついた鍵を取り出し、一礼してドアを閉める。教職員の影もないのに、律儀に、普段から惰性でしかそれをおこなっていない証拠に。三階まで階段を上がり、L字型校舎の角からそこだけ突きだした部分、すぐ右手のドアに鍵を差し込む。片側の金具がいかれているから、ノブをつかんで強く引っ張れば鍵がかかっていても開く、そのドアの鍵をきちんと開ける。壁際には二つ縦に積んだ木の丸椅子の組が前後に二つ、放射状にそれが五つ。まっすぐ時計の下に向かう。ピンクのカバーのついた茶色いメトロノームを巻き、六十に合わせる。椅子の脚の間からのぞく黒いスティック、の隣にある太いほうを選ぶ。四分音符から基礎練習を始める。丸椅子の削れた表面が堅くささくれた音で応える。
スネアを練習しなくちゃ、と思った。自由曲は四小節のロールから始まる。いつまで経っても継ぎ目のないクローズドロールが叩けない。スティックがヘッドに当たるたびにどうしても音が波立ってしまう。練習して、そしてパート練の時間を。目線を上げて、スネアの向かいにある黒板を見る。何も書いていない。曲と、それぞれの担当パートを書かないといけないのに。わたしが。思うのに思い出せない。自分のパートしか分からない。自分の名前しか浮かばない。仕方なく叩き始めたスネアは響き線が傷んでいるのか、ズシャリとだらしなくたわんだ音で煩わせた。黒ずんだヘッドも指で押せるほど緩い。小物台の上にあるチューニングキーを掴むと異様な色で錆びていた。手を洗おうと入り口に向かう。ドアが開かない。ドアノブを回してもそのまま押しても開かない。くすくすと笑う声がする。聞き覚えのある声が四つある。高い声と低い声が二つずつ。そっと、ドアノブから手を離す。
譜面台の上の、書き込みで真っ黒になった楽譜を破る。手当たりしだいに叩いていく。ティンパニは一度叩くごとにペダルがもとの位置に下がる。歯こぼれしたチューニングゲージは紙切れと輪ゴムで応急処置が施されており、それさえ破れて体をなしていない。瀟洒なカバーで大事に守られたマリンバの、脇におかれたマレットはことごとく糸がほつれて中心が剥き出しになっている。ビーターが十本近くそろったトライアングルには肝心の吊り下げるためのテグスがない。
いちばん入口に近い隅に置かれたドラムはアンバランスさで目を引く。中央のトムトムは紺、バスドラの背面は破れてパールのロゴが引き裂かれている。メーカー不明のフロアトムは赤。自立できずに床にへたりこんでいる。銀のスネアはラディック。とは言えもう文字は剥げ落ちて久しそうな様子でヘッドが凹んでいる。ライドシンバルは明らかにスタンドに対して大き過ぎるし、陽の当たるところで保存されていたためか、円盤がぐにゃりとゆがんでこちらもジルジャンの綴りが判別できない。ハイハットは何度ねじをひねって強く踏み直しても開かない。安っぽいつくりものの革が貼られた椅子は、座るまえに手でかるく押したら案の定そのまま瓦解した。
チャイムは筒がひび割れている。ふすまを開ける。日焼けした楽譜と、日の目を見ない楽器たちがぞんざいに積まれている。腕立て伏せをする後輩は居ない。押入れを確かめる。同級生は出てこない。ドアの外の笑い声を思い出す。無事なグロッケンにはメタルマレットしか残されていない。歯に響いて仕方ないその音では気が紛れるようなメロディは叩けたものじゃない。真新しいビブラフォンはペダルが効かず電源も入らず肩すかしな音でかすかに跳ねる。クラッシュシンバルを手に取ると持ち手がちぎれて片方素足の上に落ちた。疲れた。仲間にも楽器にも拒まれた。ハンティンドン・セレブレーションは五十人で鳴らすのに。床に何かが落ちている。
ただの板きれのように見えたそれは、先輩たちがつくった楽器だった。細長い長方形の板を二枚、一方を蝶番で留めただけのもの。結局本物が見つかり、いちども合奏でつかわれることなくそのまま忘れ去られていた。鳴らす。ぱん、という乾いた音。鞭で打つ音の代わりに使うそれ。ぱん、ともう一度鳴らす。ぱん。やっとまともな音が鳴った。わたしにあつかえるのはこれだけのようだった。この楽器をつかう曲を一つしか知らない。ぱん。東海岸の街がテーマになったにぎやかな曲。ホイッスルやらビブラスラップやらのけたたましくかつ軽快な音がひしめいて、あの曲のパーカッションは楽しそうだった。わたしが入るまえに聴いた演奏。
わたしで確か11代目、受け継がれてきた黒いスティックをわたしは躊躇いなく折った。
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