いつ自発的にいなくなるともしれないので、どこかには書いておこうと思いました。わたしはつかれました。試験に受かるための勉強とそれ以外の道をさがすことにつかれはてました。だれかに寄りかかりたかった。思考をとめてその人のために尽くすことだけをもとめてくれるだれかをもとめていました。でもだめでした。わたしはねだるばかりでなにも返すことができず、持ち重りのする荷物になることしかできません。帯に短したすきに長し、と自分のことを思っていましたが、そもそももはや長さの問題ではないのかもしれません。切ればたすきになり足せば帯になるしろものではとうになく、ただ使い途のないぼろきれとして、だれかの情けを待っているばかりの存在。
長く生きることがすなわちしあわせとは、祖母を間近で見ていたわたしにはとても思えません。しかしマス目とコマがかぎられている将棋と違って、無数に枝分かれしうる人生にはあきらかな詰みがあるわけではなく、たとえ三十年後にいま死ななかったことを後悔したとしても、それは三十年生きたからこそ思うのであって、いま確実に予期できることではありません。それでもわたしはその後悔がこわい。死に時を逸するのがこわい。どうして手首ひとつ指先すこしも切れないのでしょう。せめて十日分の睡眠薬をひといきに飲んでしまうくらいのことができないのでしょう。別れた相手への未練をつのらせた凶行、孤立を責任転嫁した逆恨み、他人ごとではない。記事を見るたびぎくりとします。わたしがだれかを刺したとして、すくなくとも数人は、「ついに。」と思うはずです。わたしもそうです。わたしはそれをおそれます。めまいを起こす寸前の、視界が端からくろずんできて頭にもやがかかる感覚、あれが制御できなくなるのがこわい。
わたしは健康です。頭も、なまってはいますが致命的なほどではありません。悩んでいるといっても心療内科で気休めの薬しか処方されない程度です。がんばればいい。そのとおりです。あるいは逃げ出せばいい。大学院をやめて、アルバイトをして、お金をためて、パリでお菓子の勉強をするもいいし、ニューヨークでモダンアートを観てまわるのもいい。すばらしい。でもね、つかれたんです。わたしが役に立てるだれかひとりがいれば、わたしはだれも寄りつかない田舎でなにも持たずにきっとしあわせに暮らしたでしょう。「いつかいい人があらわれる。」と彼も彼も言いました。そのひとにとってのわたしはそんな月並みなことばで関係を締めることに気がとがめないくらいの存在でしかなかったのだな、とわたしは、首をつりたくなりました。でもつりませんでした。線路に飛び込みもしませんでした。わたしはそのまま講義に出たり課題を提出したりしました。じぶんをなぐりたくなりました。つかれたんです。でもねむれません。致死量に足りない薬だけが部屋にあります。
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