南改札を出て階段を降り、最初の角で坂を下って数軒目。先客は二人。壁際のカウンターを選び、きょうは二枚で、と頼むと一時間程度かかるとのこと。頷いて、私は改札そばのブックファーストで買った文庫本に集中する。不倫の話、女性目線。
ほどなくドアが開く。振り向かなくても気配で悟り、わずかに背筋が緊張する。案の定、荷物を置いていない右隣がひとつも席を空けずに埋まった。
彼の注文も一時間。開いた本は白いカバーに金の文字。やっぱり、と内心で苦笑する。声には出さない。右手に左手が触れている。靴が当たっている。何も言わない。私たちは滞りなくページをめくり、文字を追う。
文庫本が半分弱ほど進んだところで紅茶とホットケーキが運ばれてくる。塩の効いたバターとくどくないメープルシロップ、素朴な生地の味、どれを取っても言うことがない。と私は思う。恋人には物足りない味だと分かっている。だから連れてきたことはない。
隣の彼も黙って手を動かしている。彼のナイフのつかいかたが好きで、いつもこっそり横目でうかがっている。ラフなのにスマート。折り目正しくそつのない恋人を思う。
ばらばらに食べ終わっても、同じタイミングで立ち上がる。坂の下の私の家まで一緒に歩く。打って変わって饒舌に、それぞれのクラスメイトたちの愚痴を言い合う。口汚く、率直に。そしてそんなお互いを言葉を尽くして詰り、笑う。お腹をよじって笑う。彼はすばやく通路側にまわったりしないし、私はそれを心地好く思う。手は繋がない。キスはする。
ガシャンとドアが閉まり、次いでオートロックがかかる。ギイイ、というその音で魔法はとける。いまのところ。私たちはひとりの部屋に帰っていく。帰っていける。ひとりで。ここまで連れてくる理由もひきとめない訳も分からずに。部屋の隅で膝を抱えながら、恋人に他愛のないメールを打つ。
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